「写真ばかり撮っていて、自分の子のプレーをちゃんと見られていないのでは」
撮影係を続けていると、こう言われることがあります。実際、カメラを構えている間はファインダー越しにしか試合を見ていません。他の保護者のように、声を張り上げて応援することもできません。
ただ、10年撮り続けてきて、私はそれを損だと思ったことがほとんどありません。この記事では、その理由をお伝えします。撮ることを迷っている方の、判断の材料になればと思います。
- 中学最後の打席、肉眼で見るか迷った話
- 「見ておけばよかった」より重い後悔があること
- 保護者の方からかけられた、忘れられない言葉
小学校時代は、ほぼファインダー越しだった

息子が小6の夏に行われた公式戦準決勝での場面。ファーストを守っていた息子が目いっぱい体を伸ばしアウトにした瞬間です。
毎日ストレッチを続けていた成果が、こういうプレーに出ていたのだと思います。
正直にお伝えすると、小学校時代の6年間は、息子のプレーを肉眼で見た記憶がほとんどありません。
公式戦はもちろん、練習試合まで含めてほぼ全試合を撮影していたからです。グラウンドに行けば、カメラを構えている。それが当たり前になっていました。
中学校に入ってからは、少し変えました。さすがに全試合というのは自分自身もきついので、控えようと思ったのです。
そこで、練習試合はずっと肉眼で観戦して応援することにしました。カメラを持たずに行く日を作ったわけです。
ただし、公式戦は3年間すべて撮影しました。そこだけは譲れませんでした。だから公式戦に限れば、やはりファインダー越しの応援だったことになります。
中学最後の打席、肉眼で見るか本気で迷った

息子の最後の公式戦となった市大会1回戦の試合です。9回裏に代打で出場し、これが中学最後の打席となりました。
いちばん迷ったのは、息子の中学最後の試合でした。
3年生として迎える最後の打席。代打での出場です。ここでカメラを下ろして、自分の目で見届けようかと本気で考えました。
迷った末に、シャッターを切ることを選びました。理由はこうです。

梶原(管理人)
肉眼で応援しようか迷いました。でも、むしろその姿こそ写真として記録に、記憶として残しておかないとと思い直して、シャッターを切り続けたんです。
そうしたら、スリーベースの長打。本当に涙が出そうになりました。
結果的に、この判断でよかったと思っています。
もし肉眼で見ていたら、あの打席は私の記憶の中にしか残りませんでした。撮ったからこそ、いつでも見返せますし、息子にも見せられます。
そして、いま思うことがあります。あの打席のことを、私は写真がなければ細部まで思い出せなかったかもしれません。
気持ちが昂ぶっている場面ほど、記憶は輪郭を失っていくように感じます。
打つ直前の表情、構えたときの足の位置、走り出す瞬間の姿勢。そういう細かいところは、写真を見て初めて「そうだった」と思い出せるのです。
私の後悔は「見なかったこと」ではない
「あのとき肉眼で見ておけばよかった」——そういう後悔は、正直あまりありません。
それよりもはるかに重いのが、残せなかったときの後悔です。
これは自分の息子に限りません。他の子の決定的な場面を撮り逃したとき、大事なプレーがブレていたとき。そちらのほうが、ずっと悔いが残ります。
理由ははっきりしています。撮影係として任せてもらっている以上、その試合の一瞬一瞬を切り取って残してあげることが、自分に任された重要な仕事だと思っているからです。
だから何があっても写真に残そうという気持ちで撮ってきました。この優先順位が自分の中で決まっているので、迷いが少ないのだと思います。
撮りながらでも、応援はできる
もうひとつ、実感としてお伝えしたいことがあります。
撮影しながらでも、応援はできます。
他の保護者と一緒に声を出したい、一緒に叫びたいと思う場面は、もちろんあります。ただ実際のところ、ずっと無言で撮り続けていたわけではありません。
ファインダーを覗いていても、ヒットになったことは分かります。長打でベースを駆け抜けるときは、シャッターを押しながら「行けーー!」と叫んでいました。
撮ることと応援することは、思っているほど排他的ではないのだと思います。両手はふさがっていますが、声は出せます。
それに、一緒に盛り上がる時間は休憩中や試合後にもあります。「さっきのすごかったね」と話すのは、その場でなくてもできることです。
「あなたがいるから、応援に集中できる」
そして、この記事でいちばんお伝えしたい言葉があります。
何人もの保護者の方から、こう言っていただきました。
「あなたがいつも写真に残してくれるから、私たちは応援に集中できてるんだよ。本当にありがとう」
この言葉をもらったとき、自分の活動が報われたと思いました。
それまで私は、どこかで「自分だけが応援できていない」と感じていた部分があったのかもしれません。ところが、そうではなかったのです。
誰かが撮っているからこそ、他の人は撮ることを気にせず声を出せる。役割が分かれているだけで、どちらもチームを支えていることに変わりはありませんでした。
撮る側は応援に参加できていない——そう思っていたのは、実は自分だけだったのかもしれません。
撮るか見るかは、自分で決めていい
ここまで撮る側の話をしてきましたが、誰もが撮るべきだとは思いません。
私自身、中学の練習試合はカメラを置いて観戦していました。全部を撮る必要はありません。
判断の目安として、こう考えると整理しやすいと思います。
| 場面 | おすすめの選択 |
|---|---|
| 公式戦、最後の試合、節目の日 | 撮る。二度と来ない |
| 練習試合、日常的な試合 | どちらでも。休む日を作る |
| 体力的・精神的にきついとき | 見る。続けることが優先 |
大事なのは、自分で決めているという感覚だと思います。撮らされているのではなく、自分が撮ると決めている。そうであれば、迷いも後悔も少なくなります。
まとめ:役割が違うだけで、どちらも応援している
撮る親は、確かに肉眼で試合を見ていません。声を張り上げることも、隣の人と抱き合って喜ぶこともできません。
それでも、撮ることで残るものがあります。中学最後の打席のスリーベースは、撮ったからこそいまも手元にあります。
そして誰かが撮っているからこそ、他の人は安心して応援に集中できるのです。
- ✅ 迷ったら撮る。二度と来ない日は、撮ったほうが残る
- ✅ 撮りながらでも声は出せる。盛り上がるのは試合後でもいい
- ✅ 全部を撮る必要はない。休む日を作っていい
もしいま、撮るか見るかで迷っている方がいたら。どちらを選んでも、応援していることに変わりはありません。
ただ、二度と来ない日だけは、迷ったら撮っておくことをおすすめします。
私は最後の打席で撮ることを選びました。いまでも、あの判断でよかったと思っています。
本記事は2026年現在の管理人の実体験に基づく内容です。

